説明
「はじめに」(奈多留里子)より
曽祖父奈多忠吉は柳田國男に師事した在野の民俗学者で、その仕事は自身の郷里である九尾島の郷土史をまとめることであった。伊豆諸島にある、知る人ぞ知る離島である東京都九尾島は、島の外周およそ三〇キロメートル、明治十一年に東京都に編入された。観光設備が整っていないため知名度はなく、漁業を主な産業とする。特筆すべき点は、ウラン鉱脈とそこに眠る大量の木簡の存在である。曽祖父はこの木簡を書き起こし、それら「九尾島木簡」を日本における最古の文献資料として日本考古学研究に位置付けることを目論んだが、学問的な権威づけを得ることは叶わなかった。それは大学を出ていない祖父の学術的権威に疑問符がついたこと、そして、九尾島木簡の内容が荒唐無稽とみなされたことによる。
九尾島木簡は弥生時代から十八世紀ぐらいまで続けられた習慣で、その内容は生活上の不便を解消するための、漁労や農耕についての知識がほとんどである。しかしながら、この島が定期的に生活のリセットを強いられていたであろうことは、私の曽祖父が「下層」と名付けた木簡群から推察される。そしてさらに、忠吉は島が定期的に移動していたと想像を飛躍させていた。この移動によって島は大災害に見舞われたようになり、生き残った島民達は生活の立て直しを余儀なくされたのだ、という。この飛躍が曽祖父の学術的実績にとって致命的だったのだが、私はことさらに間違った推論だと思わない。科学的研究を行うことで、地質学的な証拠が得られるはずだ。
また、これは曽祖父の研究に私が独自に付け加えた研究であるが、戦後一定期間にわたってウラン採掘が行われ、また、原子力研究施設が存在していた。島に存在している豊富な天然放射性物質の存在が島の移動に関わっている、という論立ても可能だろう。島に古くから存在する四つ腕の阿修羅信仰も、放射性物質による遺伝子損傷によって四肢に異常のある子が多く生まれやすかったのが原因ではないかと私は考えている。現在は「突然現れて消えた島」の存在を外部から示唆する文献を渉猟する日々である。また、島民のうち島から取り残された人々の存在も文書に刻まれているかもしれない。ともかく、明治期の都道府県制導入以降は島が移動したと思われる記録は残っていないため、それ以前の文献を対象としている。
私の姓である「奈多」は「ナラ」から転じたものだということを曽祖父は書き残している。ナラはもともと九尾島の歴史を書き残す書記官としての氏であり、いわば曽祖父はその仕事を現代風に引き継ごうとして柳田に弟子入りしたのだろう。私もまた、その仕事を引き継いでいくつもりだ。
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